
エディーバウアー(Eddie Bauer)をご存じでしょうか。
このブランドで人気の高いダウンジャケットに焦点を絞り、その歴史と背景を深掘りします。
Stock HillではEddie Bauerも取り扱っています。
理由は僕たちが好きなブランドだから。
ここではその魅力をお伝えします。
登山道のスタート地点で生まれた少年
エディー・バウアーは1899年、ワシントン州のオーカス島で生まれました。生まれた場所は山の登山道の入口にある小さな農家で、エディーはその生まれに深いロマンを感じていました。
「登山道のスタート地点で生まれた自分は、アウトドアで生きる運命だった」と本気で思っていたからです。
1913年秋、14歳のエディーは学校よりも狩猟と釣りのことばかり考えていた。そんな彼は校長から声をかけられ、シアトルの大型スポーツ用品店「パイパー&タフト」で働くことになりました。
学校を中退して飛び込んだその店には、専門性の高い熟練のハンター、フィッシャーマン、アウトドアマンたちが働いていました。
エディーはそこで6年間、カスタムロッドの製作からショットガンの調整、フライ釣りの技術まであらゆることを学びました。
テニスラケットから始まった
パイパー&タフトで働く中でエディーはテニスラケットの張り替えに特に優れた腕前を持つようになり、その評判で独立資金を稼ぎ、1920年に「エディー・バウアーのテニスショップ」を開きました。
開業からわずか7ヶ月後の1920年9月、作業台に張り紙が出ました。
「エディー・バウアーは狩猟に行きました。2月1日に戻ります」。
開業直後に5ヶ月も店を閉めて狩猟へ行くというのは普通では考えられない行動ですが、これには理由がありました。
現場でハンターや釣り人に必要な道具を自分で試し、アイデアを得るためです。
2年後の1922年にアウトドア全般を扱う「バウアーズ・スポーツショップ」として独立しました。

エディーは釣り道具と最近釣り上げたニジマスを披露している
死にかけた経験が生んだダウンジャケット
1935年1月、エディーは友人とワシントン州オリンピック半島に冬の釣りへ出かけました。
約45キロの魚を担いで崖を登る途中、体が熱くなりすぎないよう重いウールのコートを脱いでいました。
登り続けるうちにシャツが汗と魚で濡れ、凍りつき始めました。
低体温症の症状が出始めたエディーは、崖の頂上にたどり着くと木にもたれかかり、立ったまま眠り込みました。
目が覚めると状況の深刻さを悟り、ピストルを3発撃って助けを求めました。
帰りの車の中でエディーは考えました。
「必要なのは、暖かくて、かつ激しい運動中でも着られるほど軽くて通気性のあるものだ」。
そのひらめきは叔父の話から来ました。
叔父が日露戦争でロシア軍に従軍した際、マイナス30℃を超える満州の厳冬期にダウンの羽毛を詰めたコートに身を寄せ合う兵士たちの話をエディーに語っていたのです。
エディーはダウンに着目し、目の細かいコットン生地でダウンが外に飛び出さないようにし、胴体にはダイヤモンドキルティングを施してダウンが下に偏らないよう固定しました。
このダイヤモンドパターンが特許の対象となり、エディーは14年間その権利を独占しました。
1936年に完成した「スカイライナー」は世界初のダウンジャケットとして爆発的にヒットし、エディー・バウアーというブランドを定義することになりました。
アウトドア好きで、自分の経験からモノを作り出し、
それを自分の手でテストする。
ここまでの話を聞くと、L.L.Beanと近しいものを感じますね。

寝袋が、ブランドを育てた
1942年、アメリカ軍から寝袋の製造を直接依頼されたエディーは最初の発注1,000個を期日通りに納品しました。
他のメーカーが納期を守れない中で、エディーだけが確実に届けた。
縫製工程を効率化し梱包機械を自作することでコストを下げ、どのメーカーよりも安く速く作れるようになっていたからです。
1942年末には24時間体制で生産を続け、22万個の寝袋を受注していました。
ダウンの専門家として、軍に必要とされるほどの存在になっていた。
このエピソードがエディーバウアーの名前が全米に広がるきっかけになった。
B-9パーカ|マイナス57℃に耐えるダウン
陸軍航空隊の材料研究所から届いた依頼の条件は苛烈なものでした。「マイナス70°F(マイナス57℃)で3時間座ったまま暖かいこと」「25ポンドの装備と一緒に24時間浮いていられること」。
フライトスーツと救命胴衣を兼ねた、全く新しいものが求められました。
エディーが設計した「B-9 Parka & A-8 Flight Pants」だけが軍の厳格な試験をパスし、その後2年間で5万着を製造しました。

軍の衣料ラベルには通常「Property Air Forces U.S. Army」としか記されませんが、エディーは交渉で「Eddie Bauer Seattle, U.S.A.」を追加する権利を勝ち取りました。

1945年の終戦後、B-9を着用していた兵士たちがラベルを頼りに「あなたは私の命を救った」という手紙をエディーに送り続けました。
こうしてエディー・バウアーの名は全米に広がっていきました。
K2、そして伝説へ
1953年、アメリカ遠征隊がエディー・バウアーの装備を携えてK2に挑みました。翌1954年にK2初登頂を果たしたイタリア隊は、8,000メートル以上で一夜を過ごしただけで1人がつま先を切断するほどの極限環境です。
エディーが製作した「カラ・コラムパーカ」について遠征隊長はこう返事をしました。
「今まで見てきた中で、これほど優れた極寒・高所用の装備は見たことがない」
標高7,700メートルのキャンプ地で猛烈な嵐に見舞われ、10日以上嵐に耐え続けたチームを守ったのがカラ・コラムパーカでした。
帰国したアメリカ隊はカラ・コラムパーカを「使ったことのある中で最高の登山ジャケット」と評価しました。
エディーの言葉として「命がかかっているときに品質の妥協はできない」が残っています。
この言葉が、制作に対する熱量のすべてを表していると思います。
僕たちがEddie Bauerの古着に魅了される理由
ダウンジャケットという概念自体を発明して、軍の装備を作って、世界最高峰の登山家たちが命をかけて信頼した。
ただ、エディー・バウアーの良さはそれだけではない。
今回紹介したエピソードの根幹には、洋服1着1着に対する熱量や背景などが存分に詰まっているということだ。
その積み重ねが古着として今も残っています。
僕たちがEddie Bauerに魅了されるのは、たぶんそういうことだと思います。
📍 埼玉県北葛飾郡杉戸町下高野2376-3
🕘 24時間365日営業(無人)



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